もう一段ややこしい話をしたい。
実物のマンゴーの香りは何でできているのか。食品化学の研究によれば、主役を張るのはモノテルペンとセスキテルペン、それにラクトン類である。テルピノレン、δ-3-カレン、カリオフィレン、α-ピネンといった名前が並ぶが、どれが最も多いかは品種によってかなり違う。ケントのような西洋系の品種ではδ-3-カレンが目立ち、アジア系ではテルピノレンが優勢になる、といった具合だ。品種を通算すれば、報告されている揮発性成分は数百種類にのぼる。
いずれにせよ、主役の部品はテルペンとラクトンであって、アルデヒドやアセタールではない。つまりウイスキーで見つかった三成分は、本物のマンゴーが香りを組み立てるのに使っている部品とは別系統なのだ。
ここで、先ほどの前提が反転する。りんごや洋梨の場合は「実在の果物と同じ分子を嗅いでいる」という説明が成り立った。マンゴーはそうではない。別の材料を使って、脳の中に同じ像を結ばせている。
同じ香りをかいでも人によって呼び名が変わる理由は以前に書いたが、この一件はその手前の問題を突きつけてくる。私たちが「マンゴーの香り」と呼んでいるものは、マンゴーの化学的な定義とは無関係に成立しうる、ということだ。
では、アルデヒドはウイスキーのどこで生まれるのか。
イソブチルアルデヒドとイソバレルアルデヒドは、醸造の世界ではストレッカーアルデヒドと総称される一群に属する。対応するアミノ酸があり、イソブチルアルデヒドはバリン、イソバレルアルデヒドはロイシンから生じる。
ただし、生まれ方は一つではない。狭義のストレッカー分解はアミノ酸が糖と反応するメイラード反応系の話で、麦芽を乾かす熱のように、加熱の場面で起きる(同じ加熱で色と香りを大きく動かす例がロースト麦芽だ)。一方、発酵中に酵母が同じアルデヒドを作る道もあり、こちらはエールリッヒ経路と呼ばれる別の仕組みだ(ロイシンから3-メチルブタナールを経てイソアミルアルコールへ向かう途中に現れる)。名前は同じでも、加熱由来と発酵由来の二つの入口がある、と押さえておけばいい。由来がどちらであれ、出てくる分子は同じものだ。それが最終的にどれだけ残るかは、蒸溜のどこで留液を切るかに左右される。
三つ目のアセタールは、少し性質が違う。アセタールはアルデヒドとアルコールが結びついてできる化合物で、この反応は可逆的な平衡だ。つまり一方通行ではなく、行きつ戻りつする。アルコール飲料の化学をまとめた資料によれば、度数が40〜50%程度の蒸溜酒では、アセトアルデヒドのうちエタノールと結合した状態にあるのは全体の15〜20%ほどとされる。残りはアルデヒドのままだ。
ここは慎重に書いておきたい。この比率はアセトアルデヒドについて測られたもので、イソバレルアルデヒドのアセタールで同じになるとは限らない。そして今回の研究は、この平衡がどう動くかを追ったものでもない。分かったのは「この三つがマンゴー香に効く」ところまでで、仕込みの条件をどう動かせばこの三つがどれだけ動くのかは、まだ測られていない。
新しい成分が見つかった、という話ではないことが、この研究の実務的な意味になっている。
研究に加わった Holmes 博士は、これらの成分はウイスキーにとって新顔ではなく、よく理解されたものだと述べたうえで、生産者にとっては良い知らせだと語っている。既存の工程を大きく変えなくても、トロピカルな香りを強めたり抑えたりできるようになるかもしれない——という、あくまで期待の言い方である。論文の要旨も、これらが「ウイスキーにとって異例ではない」成分だと述べている。
つまり、新しい酵母も新しい設備も要らないかもしれない。これらの成分の生成経路と前駆体そのものは、以前から知られているからだ。ただし前節で書いたとおり、今回の研究は工程条件と三成分の量の対応までを測ったものではない。狙いどころの見当がついた、という段階である。
同じキリンとヘリオット・ワットの共同研究からは、麦芽の粉砕粒度と麦汁の澄み具合が酒質を分けるという論文も出ている。しかも同じ号の、数十ページ手前だ。造り手の手が届く変数から香りを説明していく仕事が、着実に積み上がっている。
最後に、つなぎたくなるけれど、まだつないではいけない話をしておく。
愛好家のあいだでは、数十年前に詰められたボトルに独特のトロピカルフルーツ香が現れるという話が繰り返し語られてきた。いわゆるオールドボトル・エフェクトで、この現象は決着していない。ウイスキーは瓶に詰めた時点で樽の熟成が止まるため、瓶の中で何がどこまで動くのかがそもそも争点になっている。
アセタールが平衡反応の産物だと聞けば、「瓶の中で時間をかけて増えたのではないか」と考えたくなる。筆者もそう考えた。だが今回の研究が調べたのは市販14本の香りであって、瓶詰め後の経時変化ではない。しかも先ほどの資料は、アセタールの生成は強い蒸溜酒の遊離アルデヒド量を大きく減らすものではなく、長期の熟成を経てもそれは変わらないとも書いている。時間をかければアセタールに傾いていく、という素朴な絵は、そのままでは描けない。
魅力的な仮説と、確かめられた事実は別物である。ここを混ぜてしまうと、せっかく埋まった空白に、新しい俗説を流し込むことになる。
分かったのは、あくまで「マンゴーという記述子について、まず名前が挙がったのはアルデヒドとアセタールだった」という一点だ。それでも、長く空いていた欄がひとつ埋まった意味は小さくない。
- バナナ・りんご・洋梨の香りはエステルで説明できたが、「マンゴー」という記述子だけが説明を欠いていた。 トロピカル全般はエステルでも説明がつく。空いていたのはその内側の一点である。
- ヘリオット・ワット大学の国際醸造蒸溜センターとキリンの研究者が、スコットランドとアイルランドの市販14本を官能評価・化学分析・スパイク試験にかけ、イソブチルアルデヒド、イソバレルアルデヒド、イソバレルアルデヒドジエチルアセタールの三つを同定した(米国醸造化学会誌83巻1号117〜125ページ、オンライン公開2024年3月21日、号は2025年1月)。報道でも銘柄名は明かされていない。
- この三つは単体では「マンゴー」と記述されない。 香料資料の記述は青りんご、桃、ココア、麦芽といった語で埋まっており、mango や tropical の語は現れない。混ざって初めてマンゴーとして知覚される。
- 本物のマンゴーの香りはテルペン類とラクトン類が主役で、部品としては別系統。同じ像を、別の材料で結んでいる。
- 成分自体はウイスキーにとって異例ではなく、生成経路も前駆体も既知であるため、既存工程の調整で増減できる可能性がある。ただし今回の研究は、工程条件と三成分の量の対応までを測ったものではない。
- 古いボトルのトロピカル香を説明するかどうかは、この研究の射程の外にある。
次にグラスから南国の果実が立ちのぼってきたら、その正体はエステルではないかもしれない。青りんごやココアの匂いで知られる地味な成分たちが、良い比率で居合わせた結果である。仕組みが分かっても、あの香りが安っぽくなることはない。むしろ、名前のなかった感覚に名前がついたぶん、次の一杯は少しだけ解像度が上がる。