なぜ禁酒法下のアメリカでは、飲んだ人が死ぬ酒が出回ったのか——政府が工業用アルコールに毒を加えさせた「化学者の戦争」と、「1万人」という数字の出どころ
禁酒法時代のアメリカで、連邦政府は工業用アルコールにメタノールなどの毒物を加えるよう定めていた。密造業者が毒を抜き、政府がさらに毒を強めた経緯と、語り継がれる「1万人」という数字をどこまで信じてよいかを整理する。
バーの棚に「PROHIBITION EDITION」と刷られたカティサークが置かれていることがある。禁酒法時代のアメリカへスコッチを運んだ密輸船へのオマージュで、ラベルの空気は陽気だ。だがその時代に出回っていた酒は、しばしば本当に人を殺した。しかも毒の一部は、密造業者ではなく——連邦政府が、法にもとづいて工業用アルコールに入れさせたものだった。
のちに「化学者の戦争」(2010年にデボラ・ブラムが記事でそう呼んだ)として知られるこの一件は、どこまでが事実で、どこからが語り継がれるうちに膨らんだ話なのか。順にたどっていきたい。
1906年、政府は「飲めない酒」の税を免じた
話は禁酒法より14年さかのぼる。1906年6月7日、アメリカ議会は工業用アルコールを非課税とする法律を成立させた(施行は翌1907年1月1日)。塗料の溶剤、燃料、灯り——酒として飲まないのなら、酒税をかける理由がない。
ただし条件がついた。飲めないように「変性(denature)」させること。悪臭や苦味、そして毒性のある物質を混ぜる方式で、ヨーロッパでは以前から行われていた(イギリスにも1855年に同種の法があった)。もっとも一般的な添加物が、メタノール(木精、ウッドアルコール)だった。
メタノールはエタノールと化学的によく似ているのに、体内での振る舞いはまるで違う。代謝されるとホルムアルデヒドやギ酸に変わり、視神経を侵し、量によっては死に至る。飲む酒と工業用の液体を分ける「線」として、これほど確実なものはなかった。
密造業者は、化学者を雇った
1920年1月、禁酒法が施行される(→なぜアメリカは、憲法を書き換えてまで酒を禁じるに至ったのか)。
このとき、非課税で大量に流通していた工業用アルコールは、格好の原料に見えた。政府の見積もりでは、1920年代半ばに全米で造られた工業用アルコールおよそ9,000万ガロンのうち、1,000万ガロン前後が密造業者の手に渡ったとされる。
彼らは化学者を雇い、変性を「元に戻す」作業にあたらせた。メタノールはおよそ65℃、エタノールはおよそ78℃で沸く。慎重に熱すればメタノールだけを先に飛ばせる理屈で、実際、彼らはかなりの割合でそれをやってのけた。政府が次の手を打たざるを得なかったのは、この作業が成功していたからだ。
とはいえ、路地裏の粗末な蒸留器で十数度の差を毎回きれいに切り分けられるわけではない。ウイスキー造りで蒸留の「カット」がどれほど繊細な判断かを知っていれば、それを毒物相手に急ごしらえの設備でやることの危うさは想像がつく。抜き損ねた分は、そのまま瓶に残った。
クリスマスの夜、ベルビュー病院で
1926年のクリスマス、ニューヨークのベルビュー病院に、酒を飲んだ人々が次々と担ぎ込まれた。当日の夕方までに60人以上が重篤な状態で運ばれ、8人が死んだ。続く2日のあいだに、市内ではさらに20人以上が亡くなっている。
ニューヨーク市で初代の監察医務局長(チーフ・メディカル・エグザミナー)を務めていたチャールズ・ノリスは記者を集め、こう突きつけた。アルコールに毒を入れても飲酒が止まらないことを、政府は知っている。それでも毒を入れ続けている——と。彼はこの政策を「われわれの国家的な絶滅実験(our national experiment in extermination)」と呼んだ。禁酒法を指して使われた「高貴なる実験(noble experiment)」をもじり、"our noble experiment—in extermination" と言ったとする伝えもある。
のちに、一連の死をめぐってコロンビア大学の学長ニコラス・マレー・バトラーは、これを「合法的な殺人」と非難している。
惨事の数日後、政府は毒を強めた
ここが、この話でもっとも据わりの悪いところだ。
クリスマスの大量中毒からわずか数日後、1926年12月31日に財務省が発表したのは、規制の緩和ではなく——変性アルコールをさらに致死的にする、という方針だった。新しい処方が出そろうのは1927年半ばまでかかったが、そこに並んだ物質の名前は、灯油、ベンゼン、ヨウ素、ニコチン、ホルムアルデヒド、クロロホルム、水銀塩といったものだった。
肝心のメタノールの扱いについては、資料が食い違う。最大10%まで引き上げられたと書くものもあれば、それ以前に4%を加えるよう命じていたものを、のちに上限2%へ改めたと記すものもある。当時の変性処方は70種類ほどあり、用途ごとに中身が違った。「政府がメタノールを増やすよう求めた」ところまでは複数の資料が一致するが、その比率を一つの数字に決め打ちするのは無理がある。
ノリスやバトラーの批判に対しては、反論もあった。禁酒運動を率いたアンチ・サルーン・リーグのウェイン・ホイーラーは、憲法が酒を禁じている以上、政府に飲める酒を用意する義務はない、という趣旨を述べている。禁酒法の執行を担当した財務次官補にいたっては、粗悪な酒で飲酒者が死んでいくことを、目的が果たされつつある証拠のように語ったと伝えられる。
「1万人が死んだ」という数字を、どう扱うか
この話には、ほぼ必ず「禁酒法が終わるまでに1万人が死んだ」という数字がついて回る。ただ、ここは慎重に読んだほうがいい。
1万人という数はエドワード・ベアの著書に由来するとされるが、どう算出されたのかをたどれる資料が見当たらない。全米で5,000人以上とする記述もあれば、5万人に達するとする記述もある。ニューヨーク市の1926年の死者数ですら、資料によって400人、585人、750人と揃わない。当時の死亡統計はまだ全州を覆っておらず、そもそも死因の分類に「政府の変性処方によるもの」という区分は存在しなかった。
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