なぜ戦時下の日本で、ウイスキーだけは増やされたのか——海軍に納めた「イカリ印」と、缶に詰めて戦地へ送られた一杯
米も酒も配給へ向かっていた戦時下、山崎と余市のスチルは止まらなかった。ウイスキーが軍需品に指定されていたからである。英国海軍を手本にした日本海軍の嗜好、寿屋が納めた「イカリ印」、缶に詰めて北の戦場へ送られた余市の一杯。そして残った樽が、戦後の再出発を支えた話。
「ぜいたくは敵だ!」と書かれた立て看板が東京の街に並んだのは、1940年の夏である。米は配給へ向かい、砂糖は棚から消え、酒を自由に買うことも、じきにできなくなった。
ところがその頃から終戦間際にかけて、大阪府と京都府の境にある山崎と、北海道の余市では、ポットスチルの火が落ちなかった。それどころか、ウイスキーの出荷量は伸び続けていた。
食べるものにも事欠く国で、なぜ嗜好品の最たるものであるはずのウイスキーだけが、造り続けることを許されたのか。答えは「軍需品だったから」であり、その理由をたどると、明治の日本海軍が英国海軍を手本にした、という一点に行き着く。
「贅沢品」として縛られ、「軍需品」として守られた
日中戦争と国家総動員法を経て、日本はすでに戦時体制に入っていた。第二次世界大戦が始まった翌年の1940年6月、竹鶴政孝が余市で仕込んだ第1号「ニッカウヰスキー」がようやく出荷される。だがその1か月後の7月7日、奢侈品等製造販売制限規則——通称「七・七禁令」が施行された。
不要不急のもの、贅沢なものの製造と販売を禁じる法令である。ウイスキーラベルの収集研究を長く続けた臨床病理学者・河合忠は、この禁令によってウイスキーの製造販売も大きな制約を受け、価格統制の時代に入ったと書いている。出荷から1か月で、自由に売ることができなくなったわけだ。
1943年にはさらに酒類そのものが配給制になり、税額を細かく取るための級別が引かれる。このときウイスキーは「雑酒」として1級から3級に分けられた。のちに古いボトルを飾ることになる「特級」の二文字が加わるのは、戦後の酒税法からである(→なぜ古いウイスキーのラベルには「特級」と書かれているのか)。
ここまでなら、ウイスキーは真っ先に棚から消える酒だったはずだ。実際にはそうならなかった。自由な販売が禁じられた代わりに、寿屋(現在のサントリー)も大日本果汁(現在のニッカウヰスキー)も軍の指定を受け、製品のほとんどを軍へ納めることになったからである。
戦争において、酒は兵の士気を保つための必需品と見なされていた。売り先を選ぶ自由を差し出す代わりに、造り続けることを許された——それが戦時下のウイスキー産業の立ち位置だった。
日本海軍が、日本酒ではなくウイスキーを飲んでいた理由
なぜ軍が——とりわけ海軍が、敵国であるイギリスの酒を求めたのか。
日本海軍は創設期から英国海軍を手本にしていた。軍艦を発注し、教官を招き、留学生を送る。制度も習慣も英国式に整えるうちに、嗜好までが英国式になった。士官が飲むのはウイスキーだった。
度数の高い酒は容積あたりの効率がよく、艦内の限られた保管場所に向いている——そうした実務的な説明もされるが、こちらは後づけの理屈かもしれない。確かなのは、海軍がウイスキーを日常の備品として扱っていたことだ。
その証拠が、大正7年(1918年)に編まれた海軍の厨業(調理)教科書に残っている。ここには「ホットウヰスキー」の作り方が載っていた。舞鶴で復刻されたレシピによれば、グラスに角砂糖とナツメグ、アンゴスチュラビターを2ドロップ。ウイスキーを注いで混ぜ、クローブを2個落とし、熱湯を八分目まで。最後に輪切りのレモンを1片。
調理教本に載るということは、それが特別なご馳走ではなく、覚えておくべき定型だったということだ。
そして戦争が始まると、イギリスからのスコッチの輸入は途絶える。海軍が飲み慣れた酒を確保する道は、国産に頼るしかなくなった。
寿屋に届いた、「イカリ印」という発注
海軍が寿屋に発注したのが、「イカリ印」と呼ばれる特製ウイスキーである。錨——海軍のしるしだ。
この発注は、寿屋の側にも大きな意味を持っていた。統制下で手に入りにくくなっていた大麦などの原料を、軍が優先的に融通してくれるからである。軍需産業に指定された蒸溜所には、原料調達の心配がほとんどなかったという。
山崎蒸溜所の出荷量は、1930年の約1万7,000リットルから、1944年には約77万リットルまで伸びたと記録されている。14年でおよそ45倍である。戦前からの成長を含んだ数字ではあるけれど、配給に絞られていく他の酒類とは、はっきり逆を向いている。
河合忠は、寿屋が海軍の要請に応えて沖縄やジャワ島にまで新しく工場を建てたとも記している。ウイスキーは、戦線とともに移動する物資になっていた。
その痕跡は、いまも思いがけない場所から出てくる。小笠原諸島・父島の夜明山の山中で見つかった古い瓶は、底に錨のマークがあり、薄れたローマ字で「KOTOBUKIYA」と読めた。戦地へ運ばれた「イカリ印」の一本である。
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