なぜ、飲み干した空のグラスからいちばん甘い香りがするのか——78℃で去るものと、285℃まで残るもの
エタノールは78℃、バニリンは285℃。揮発しやすいものから順に消え、残された成分が濃縮されていく——空きグラスが甘く香る理由を、よく語られる「エタノールがマスクしていた」説を研究データで検証しながら解き明かします。
飲み干したあと、グラスをすぐ流しに持っていかずに、少しだけ置いてみてほしい。10分ほどして鼻を近づけると、さっきまで飲んでいた一杯とは別のものが立ちのぼってくる。バニラ、焼き菓子、乾いた果実——たいていは、グラスに酒が入っていたときより甘い。
「空になってからのほうが良い香りがする」。ウイスキーを飲む人なら一度は感じるこの逆転には、グラスの中で何が去り、何が残ったのかという物理的な事情がある。ただし、よく語られている説明の半分は、どうやら的を外している。順に見ていきたい。
78℃で去るものと、285℃まで残るもの
ウイスキーの香りは、液体から気体になった成分を鼻が捉えたものだ。だから「何が先に気体になるか」で、鼻に届く顔ぶれは刻々と入れ替わっていく。
エタノールが沸騰するのは78.37℃、水は100℃。これに対して、樽由来の香気成分ははるかに高い温度でなければ沸かない。バニラの香りそのものであるバニリンは沸点285℃、スモーキーな薬品香に関わるグアイアコール(ピートにも、内側を焦がした樽にも由来する)は204〜206℃とされる。もちろんグラスの中が沸騰しているわけではないが、この差は蒸発しやすさの序列をおおまかに教えてくれる。厳密には、水溶液からの揮発はその成分が水になじみやすいかどうかにも左右されるので、沸点だけで決まるわけではない。
グラスを空にすると、内壁にはごく薄い液の膜が残る。この膜からは、まず揮発しやすいエタノールが抜け、遅れて水が抜けていく。あとに残るのは、揮発しにくい重い成分たち——つまり、樽やピートが与えた香りの成分だ。
ここで効いてくるのが「濃縮」である。溶媒であるエタノールと水が減っていくぶん、残された成分の割合はどんどん上がっていく。しかも膜は薄いから、液体の量に対して空気に触れる面積が極端に大きく、ごく微量でも効率よく気化して、グラスの狭い空間に溜まる。飲んでいたときは大量のエタノールに溶かし込まれて薄まっていた成分が、最後に濃縮された形で差し出される——これが空きグラスの正体だ。
「エタノールが邪魔をしていた」——という説明は、実は怪しい
空きグラスの香りについて、よく語られるのは「エタノールが他の香りを覆い隠していて、それが飛んだから香りが開くのだ」という説明だ。もっともらしい。だが少なくとも甘い香りについては、そうとも言い切れない。
2023年に学術誌『Foods』で発表された、ウイスキーの希釈に関する研究がある(米ワシントン州立大学などのグループ)。この論文は、アルコール度数が高いほど多くの香気成分にマスキング効果が働く、というワイン分野の先行研究を引いたうえで、自分たちの官能評価と成分分析の結果を報告している。
そこで示された内訳が興味深い。フルーティーな香りに関わる酢酸エステル類のような、水になじみにくい成分は、水で薄めると香りが立った。ところが「バニラ」「オーク」といった樽由来の記述子については、エタノール濃度が高いほど強く評価されたという。つまり甘いバニラ香に関しては、エタノールは邪魔者どころか、香りを引き立てる側にいたことになる。
ただし断っておくと、この研究が調べたのは液体に水を足した場合であって、グラスが乾いていく過程そのものではない。だから空きグラスについての答えを直接出しているわけではない。それでも、「エタノールが甘い香りを覆い隠していた」という説明が使えなくなることは確かだ。残るのは、前の節で見た濃縮のほうである。アルコールの刺激が消えて嗅ぎやすくなる面もあるにせよ、甘さの主役は「覆いが取れた」ことではなく、「ほかが全部いなくなった」ことにあると考えるのが自然だろう。
加水で香りが開くのとも、別の話
同じ理由で、「水を一滴垂らすと香りが開く」現象と空きグラスを一緒くたにはできない。
加水は、水を足して液の中の香気成分の濃度を下げる操作だ(そのぶん、水になじみにくい成分はかえって空気中へ出やすくなる)。空きグラスは逆に、溶媒のほうが消えて液の中の濃度が上がっていく過程である。向きが正反対なのだから、同じ理屈で説明できるはずがない。加水で香りが開く仕組みそのものについては、なぜウイスキーは水を一滴垂らすと香りが開くのかで詳しく扱っている。
厳密に言えば、乾いていく膜の中でも、揮発しやすいエタノールが先に減るぶん度数自体は下がっていく。それでも香気成分そのものの濃さは上がり続ける。ここが加水との決定的な違いだ。
空きグラスは、その一杯の「樽の履歴書」
残るのが重くて揮発しにくい成分だとすれば、空きグラスの香りは、そのウイスキーの樽の性格をかなり率直に映すことになる。
バニリンは、オーク材に含まれるリグニンが熱で分解されて生まれる成分だ(なぜウイスキーからは「バニラ」の香りがするのか)。だから、内側を強く焼いた新樽を使うバーボンは、空きグラスにバニラや焦がした砂糖のような残り香をはっきり置いていきやすい。

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