なぜ、とっくに消えた蒸溜所の姿を私たちはいまも語れるのか——2年ほどで160軒あまりを訪ね歩いた男と、マッカランに割かれたたった7行
19世紀に閉じた蒸溜所の設備や風景を、いま私たちが語れるのはなぜか。1885年から2年ほどをかけて連合王国じゅうの蒸溜所を訪ね歩き、160軒あまりを記録した男がいた。その本には、いまや「王」と呼ばれる蒸溜所がたった7行しか登場しない。
スコッチの歴史を読んでいると、とっくに消えた蒸溜所の話が、やけに具体的に出てくることがある。スチルが何基あったか、どんな建物だったか、どの川から水を引いていたか。閉じたのが100年以上前なのに、なぜそこまで分かるのか。
答えの多くは、一冊の本に行き着く。1887年に出た『The Whisky Distilleries of the United Kingdom』。著者はアルフレッド・バーナードという人物で、ウイスキーを造ったわけでも、蒸溜所を持っていたわけでもない。当時動いていた蒸溜所をひたすら訪ね歩き、見たものを書いた。それだけである。
この記事では、その一人ぶんの仕事がなぜ140年近く経ってもなお効いているのかを書く。そして、その本に残った二つの奇妙な偏りについても。
2年ほどで、160軒あまり
バーナードは酒類業界紙 Harper's Weekly Gazette の事務方(secretary)だった。若い頃は食料品商をしていて、のちに酒類業界向けの広告代理業にも関わっている。その彼が同紙の依頼を受け、1885年から、当時の連合王国——グレートブリテンとアイルランド——で稼働していた蒸溜所を回った。
数字は資料によって少し割れる。訪ねた軒数は、スコットランド129軒・アイルランド29軒・イングランド4軒の計162軒とするものが多い一方、アイルランドを28軒として計161軒と数えるものもある。取材期間も「1885年春から1886年末まで」とするものと「1885年から1887年」とするものが並ぶ。おおよそ2年、160軒あまり、と押さえておけばいい。
いずれにせよ「稼働中のウイスキー蒸溜所は、ほぼ全部」という規模だ(イングランドについては、把握していた10軒のうち4軒しか訪ねていない。残りは工業用アルコールやジンの製造とみられている)。
移動は汽車、蒸気船、馬車、そして徒歩。鉄道網が伸びきっていない時代に、半島の先や離島まで足を運んでいる。原稿はまず同紙に連載され、1887年に約500ページの単行本にまとめられた。本文はおよそ25万語、図版は約130点。蒸溜所の遠景や設備の彫版は Walker & Boutall という工房の手による。
いまラガヴーリンの19世紀の佇まいを図版で見られるのも、この本のおかげだ。同じ湾に、同じ名前の蒸溜所がいまも建っている。

書かなかったものが、はっきりしている
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