カリラは、まさにその増産期の産物である。1972年4月に生産を止め、倉庫を除く建物のほぼすべてを取り壊し、スチル6基の蒸溜所として建て直して1974年1月に再開した。アイラ最大の生産能力を持つに至ったのは、需要が伸び続けるという前提があったからだ。その前提が崩れる、わずか数年前の投資だった。
嵐の中心にいたのは、当時スコッチ業界を支配していた巨人DCL(ディスティラーズ・カンパニー)である。
1983年、DCLは自社が持つ45のモルト蒸溜所のうち11か所を止めた——ラッセルはそう記す。ポート・エレンとブローラがその中に含まれ、さらにグレーン蒸溜所のカースブリッジも閉じられた。
ただし数え方は資料によって割れている。「1983年にモルト9か所とグレーン1か所を閉じ、その2年後にさらにモルト10か所」と整理する記述もあり、どちらが正確かは決着していない。一致しているのは大枠のほうで、DCLだけで1980年代におよそ20の蒸溜所が沈黙し、その多くは二度と動かなかったという点である。
ウイスキー・アドヴォケイト誌が「二度と稼働しない」として挙げる名前を並べると、こうなる。バンフ、コールバーン、コンヴァルモア、ダラスデュー、グレン・アルビン、グレンロッキー、グレン・モール、グレンユーギー、グレンユーリー・ロイヤル、ミルバーン、ノースポート、リンリスゴー(セント・マグダレン)、グレンエスク(ヒルサイドとも呼ばれた同じ蒸溜所)、モファット(グレン・フラグラーとガーンヒースを擁した複合施設)——そしてポート・エレンとブローラ。ただし、この最後の2つには続きがある。
止める蒸溜所を選んだ基準は、シングルモルトとしての完成度ではなかった。
当時のスコッチは圧倒的にブレンデッドの世界で、モルト蒸溜所の存在意義は「自社ブレンドに必要な原酒を供給すること」にある。だから判断軸は、そのブレンドがまだ売れているか、その原酒でなければ困るかだった。
ポート・エレンについて、ウイスキー・アドヴォケイトは「当時のDCLのブレンダーが求める品質要件を満たすとは見なされていなかった」と書く。ブローラは端的に「余剰」と判断された。どちらも、いま数十万ポンドで取引される酒をつくっていた蒸溜所である。
当時の判断が愚かだったというより、評価の物差しそのものが入れ替わったと言うほうが近い。ブレンド用原酒としての価値と、シングルモルトとしての価値は、別の尺度なのだ。
ブローラの成り立ちは、この20年の空気をそのまま映している。
もともとこの蒸溜所はクライヌリッシュという名前だった。1967年、需要拡大を見込んで隣に新しいクライヌリッシュ蒸溜所が建てられ、一時は新旧2つが並んで稼働する。旧蒸溜所は1968年8月にいったん止まった。
ところが1969年、旧蒸溜所に再び火が入る。狙いは、ブレンド用にアイラ風の強くピートを焚いた麦芽で造る原酒だった。当時アイラは干ばつに見舞われ、ピーテッド原酒の供給に穴が空いていたのである。のちにカリラが建て替えで止まると、穴はさらに広がった。ブローラがヘビリーピーテッドな原酒を焚き続けたのは、1969年5月から1973年7月までである。
同名の蒸溜所が2つ存在できなくなったため——スコッチウイスキー協会の指摘によるとも、1975年の規則改正によるとも言われる——旧蒸溜所は地名をとって「ブローラ」と改名された。
そして1983年、そのブローラが止まる。増産の時代に生まれ直し、縮小の時代に消えた蒸溜所である。
グレンフィディックは1963年、シングルモルトを世界的なブランドとして本格的に売り込んだ最初の存在になった(当時売り出したのは8年もののストレートモルトで、現行の12年ではない)。「モルトはブレンドの材料」が常識だった時代に自分の名前で売る道を先に開いたことが、1980年代に効いた。
もっとも、公平に言えばウィリアム・グラント社はそもそもDCL傘下ではなく、あの閉鎖リストの対象になる立場ではない。それでも業界全体が縮む中で、需要を自分で作れる蒸溜所は強いという教訓は残った。
対照的なのがアードベッグである。1981年3月に休止し、1989年に再稼働するものの、その後も断続的な操業が続いた。1996年に再び沈黙したこの蒸溜所を、翌1997年にグレンモーレンジィが蒸溜所と在庫込みで700万ポンドで買い取り、本格的な復活につながる。ブレンド用原酒の供給元としては要らないと判断され、シングルモルトとしての評価が追いついてきたときに買い手がついた——順序がそのまま出ている。
危機は業界の地図そのものも書き換えた。DCL自身、City(ロンドン金融街)からの長年の批判を受けたのち、激しい争奪戦の末に1986年ギネスに買収される(この買収は後年、株価買い支えをめぐる事件として立件された)。今日、スコッチの大半が少数の企業に握られている構図は、この再編の延長線上にある。
そして、これは対岸の火事ではない。
日本のウイスキー消費は1983年をピークに減少へ転じ、数年のうちに4分の1が失われた。すでに縮んでいた市場に、1989年4月の酒税法改正が追い打ちをかける。従価税とともに級別制度が廃止され、価格の景色が一変した。
軽井沢も、縮む市場のなかで稼働を細らせたすえ、2000年12月31日に蒸溜を終えている。残された364樽は2011年8月にすべてナンバーワン・ドリンクスへ売却された(その後のボトルの高騰については前述の記事で詳しく扱っている)。
一方、止まったが戻ってきた例もある。マルス信州(現・マルス駒ヶ岳)蒸溜所は、1989年の税制改正後のウイスキー不況を受けて1992年に蒸溜を休止し、19年の沈黙を経て2011年2月に再開した。背中を押したのは2008年以降のハイボールブームである。
日本で原酒不足が言われ、年数表記が消えていった背景には、需要の急回復に加えて、この空白期に十分な原酒が仕込まれなかったという事情もある。ウイスキーの時間差は、20年後に請求書を送ってくるのだ。
物語には、ひとまずの続きがある。
2017年、ディアジオは3,500万ポンドを投じてポート・エレンとブローラを復活させると発表した。それぞれ年間80万リットル(純アルコール換算)の能力を持ち、可能な限り以前の味わいを再現する計画である。ブローラは2021年に38年ぶり、ポート・エレンは2024年3月19日に40年ぶりの蒸溜を再開した。
ローランドのローズバンクも戻った。1993年にユナイテッド・ディスティラーズ(のちのディアジオ)が休止させ、そのまま再開しなかった蒸溜所である。2017年、イアン・マクロード・ディスティラーズが商標と在庫、そして跡地を取得。2023年7月18日に復活後の最初の樽が詰められ、2024年6月には見学者の受け入れが始まった。
もっとも、これらは例外である。あの10年に止められた蒸溜所の大半は、建物ごと消えている。戻ってきたのは、閉鎖後に評価が跳ね上がった一握りだけだ。
いま世界ではクラフト蒸溜所が次々と生まれている。日本でも同じ動きが続く。「第二のウイスキー・ロッホが来るのではないか」という問いは、以前から業界メディアに出ていた。
2019年にこの問いを立てた scotchwhisky.com の記事は、起きにくい側に寄った結論を出している。1972年から1992年にかけて英国の金利は10〜15%で推移し、在庫を抱え続けること自体が企業の体力を削った。それに比べれば金利ははるかに低く、この10〜15年でウイスキーの収益性は上がり、輸出先もかつてなく分散した——というのがその読みだった。
**ただし、前提は部分的に巻き戻っている。**イングランド銀行の政策金利は2026年7月末時点で3.75%。ゼロ近傍だった当時とは違う。スコッチの輸出額は2025年に54億ポンド(前年は56億ポンド)へ落ち、数量は4.5%減。世界の販売も3年続けて減った。米国の関税も重くのしかかっている。
そして実際に、造る量が絞られはじめた。イアン・マクロード・ディスティラーズはグレンゴインと——ほかならぬ復活したばかりのローズバンクで——年間生産量を30%削減し、ディアジオはティーニニックを、LVMHはグレンモーレンジィの生産を止めている。
それでも、1980年代とは決定的に違う点がある。いま起きているのは休止と減産であって、解体ではない。80年代に失われた蒸溜所は、建物ごと消えて二度と戻らなかった。今回は「しばらく動かさない」という判断であって、「無くす」という判断ではない。
金利という条件は、当時にいくらか近づいた。だが依存先のほうは変わっている。ブレンデッド一本足で世界に賭けていた業界は、いまシングルモルトを含む複数の柱と、分散した市場を持つ。同じ形の湖が同じ規模であふれるとは考えにくい——そう見るのが妥当だろう。もっとも、その予測が当たっているかどうかは、結局10年後にしか判明しない。
ウイスキーは過去の判断を飲む酒である。目の前のグラスに入っているのは、10年前、20年前に誰かが「これだけ造ろう」と決めた結果だ。
キャンベルタウンの盛衰も、閉鎖蒸溜所の値札も、いま棚に並ぶ12年ものの数も、すべてこの時間差の上にある。1983年に止められた蒸溜所の名前をいくつか知っておくと、その一本が今そこにあること自体が、少し違って見えてくるはずだ。