なぜウイスキーは、樽で寝かせるようになったのか——「密造者が隠したら琥珀色になっていた」という物語を、どこまで信じてよいか
蒸溜したての酒は無色透明だ。では誰が最初に「樽で寝かせるとうまくなる」と気づいたのか。よく語られる密造者と徴税官の物語はどこまで本当なのか。伝説の出どころと、1822年の回想録、そして1915年の条文をたどる。
琥珀色。ウイスキーと聞いて多くの人が思い浮かべるあの色は、スチルから流れ出たばかりの酒にはまだ無い。蒸溜されたての酒は無色透明で、色も、バニラのような甘い香りも、まろやかな口当たりも、すべては樽のなかで生まれる。
では、誰が最初に「樽で寝かせるとうまくなる」と気づいたのか。この問いには、日本語のウイスキー記事でもくり返し紹介されてきた有名な物語がある。密造者が徴税官から酒を隠したら、数年後に琥珀色の美酒になっていた——という筋書きだ。
その物語がどこで、どんな形で語られてきたのか。そして条文や同時代に近い記述は何を語っているのかを追ってみる。
語り継がれてきた「密造者と徴税官」の物語
物語はこう語られる。重い酒税に苦しんだスコットランドの造り手たちは、山中に隠れて密造を続けていた。彼らは片方の目で銅製のスチルの沸き具合を見ながら、もう片方の目で徴税官の動きを追っていた。
ある密造者が、徴税官が近づいてくるのに気づいて、酒を詰めた樽を地下や岩陰に隠した。その後も監視の目が緩まず、彼は結局ウイスキーづくりを断念してしまう。ところが数年後にその樽を取り出してみると、驚いたことに、中の酒はまろやかで口当たりのよいものに変わっていた——。
これは筆者の創作ではなく、サントリーがウェブで公開している『バランタイン・ストーリー』第11章「MATURATION(熟成)」に書かれている内容の要約である。日本語のウイスキー入門記事でも、樽熟成の始まりとして同じ筋書きがくり返し紹介されている。
ここで、細部が版によって違うことに気づく。『バランタイン・ストーリー』版の結末は「まろやかになっていた」だが、日本語の解説記事では「琥珀色の美酒となっていた」と、色まで具体的に語られることが多い。隠したのはシェリーの空き樽だった、と補われている版もある。名もなき密造者の話は、伝わるうちに少しずつ鮮やかになっていく。
その物語を伝えている側が、「伝説」と書いている
見落とされがちなのは、この話を紹介している当の文章が、それを事実として書いていない点だ。
同章は「熟成の技術が生まれた経緯は、今では伝説と化している」と前置きし、続く段落も「伝説によれば」で始まる。そして「伝説を信じる限り、熟成の技術と科学はこうして始まった」と、条件つきの言い方で締めくくっている。
物語には、密造者の名前も、年も、場所も出てこない。誰がいつどこで、が欠けている話は、裏を取ることも反証することもできない。ウイスキーの世界にはこの形の逸話が驚くほど多く、そして多くの場合、伝わるうちに「〜と言われる」が「〜だった」に変わっていく。
樽は、最初から熟成装置だったわけではない
樽は、ウイスキーのために発明された道具ではない。18世紀から19世紀にかけて、樽は液体を運び、保管するための、ごく標準的な容器だった。ワインもシェリーも塩漬けのニシンも、樽で運ばれていた。ウイスキーが樽に入っていたのは、それが当時いちばん普通の入れ物だったからである。
そして、樽に入っていることと、樽で熟成させることは、同じではない。
『バランタイン・ストーリー』は、伝説を紹介したすぐあとで、こうも書いている。「19世紀末まで、大半のウイスキーは一切の熟成を行わず、テイストの未熟さは別のフレーバーで補っていた」。一般の消費者は蒸溜したてのものを買い、ときにはスチルから出てくるところをその場で求めた。地方では水差しや小型の樽を自分で持参し、量り売りで詰めてもらうのが普通だった、とも。
これは一社が伝えるブランドの読み物であって、当時の統計ではない。それでも、熟成させない酒がごく普通に流通していた時代が長かったこと自体は、他の資料とも矛盾しない。いま私たちが当たり前だと思っている「何年ものか」という問いは、当時の飲み手の多くにとって意味をなさなかった。
その「熟成前の姿」は、いまなら実際に味わえる。無色透明のニューメイクを売る蒸溜所が増えたからだ(熟成前のウイスキー「ニューメイク」はどんな味なのか)。
ただし、「長く樽にある」がすでに褒め言葉だった記録もある
では、熟成の価値は19世紀末になるまで誰にも知られていなかったのか。そうとも言い切れない。
ハイランドの地主の娘エリザベス・グラントの回想録『Memoirs of a Highland Lady』に、1822年、ジョージ4世がエディンバラを訪れた際のくだりがある。父の指示で献上したウイスキーを、彼女は「long in wood(長く木の中にあった)」「mild as milk(ミルクのようにまろやか)」と書いている。長く樽に置かれていることが、すでに褒め言葉として通じていたことになる。
ただし扱いには注意がいる。この回想録が書かれたのは1845年から54年にかけてで、刊行は1898年。出来事から数十年後に記された個人の回想であって、同時代の記録ではない。ジョージ4世がグレンリベットを所望したという有名な逸話についても、真偽には諸説がある。
それでも、この一節にはもうひとつ見逃せない語がある。彼女は同じ文で、その酒に「the true contraband goût(正真正銘の密造酒の風味)」があったとも書いているのだ。当時「グレンリベット」はまだ蒸溜所の名ではなく谷の名で、そこの酒は非合法だった。つまり——王に献上されたその一本は、長く樽で寝ていた密造酒だった。
伝説が言うような「隠したら偶然うまくなった」の一度きりの発見ではないにせよ、密造の酒が樽で長く眠り、それが美点として語られる状況は、たしかに実在したわけである。
なぜ、よりによってシェリー樽だったのか
もうひとつ、伝説がうまく説明していないことがある。なぜシェリーの樽だったのか、である。
答えは味の設計ではなく、値段だ。当時、スペインのシェリーは樽に詰められて英国へ運ばれてきた。空になった樽をわざわざスペインへ送り返すのは割に合わず、英国内で売り払われる。北米と違ってスコットランドでは新しいオーク樽が手に入りにくかったこともあり、蒸溜業者にとってこの中古樽は、新樽よりはるかに安い調達先だった。
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