バーで頼む一杯と、バッファロートレースを持つ会社は、なぜ同じ名前なのか——「サゼラック」は中身も看板も入れ替えて生き延びた
バッファロートレースやイーグルレアを束ねる企業名「サゼラック」は、バーで頼むカクテルの名でもある。コニャックの銘柄から酒場、カクテル、企業へ。指すものを入れ替え、グラスの中身まで二度替えて生き延びた一語の話。
バーの棚に並ぶバッファロートレース、イーグルレア、ウェラー。これらを束ねている会社の名は「サゼラック」という。そして同じ店のカクテルメニューにも、たいてい「サゼラック」がある。ライウイスキーに砂糖とビターズを合わせ、アブサンで香りを移した、ニューオーリンズの古典だ。
一杯のカクテルと、世界有数の酒類企業。この二つが同じ名前なのは偶然ではない。かといって、会社がカクテルにあやかったわけでもない。どちらも、19世紀のニューオーリンズにあった一軒の店から枝分かれしている。
面白いのはその先だ。サゼラックという名前をめぐっては、170年あまりのあいだに三度の入れ替わりが起きている。グラスの中身が二度、看板そのものが一度。しかも最初に「サゼラック」と呼ばれていたものは、ウイスキーですらなかった。
出発点は、フランスのコニャックだった
サゼラック社の公式沿革によれば、1782年にベルナール・サゼラック・ド・フォルジュという人物が、コニャック地方に自分の名を冠したメゾンを興した。一族の起こりはさらに古く17世紀に遡るとも同社は説明している。ともかく「サゼラック」はもともと、フランスのブランデーの銘柄名である。
19世紀半ばのニューオーリンズに、このコニャックを扱う店があった。1850年前後、酒類商のシューエル・T・テイラーがサゼラック・ド・フォルジュ・エ・フィスの輸入を手がけ、彼が手放した店を買ったアーロン・バードが看板を「サゼラック・コーヒーハウス」に掛け替えた——というのが広く流布した筋書きだ。
ただし、この初期の経緯は資料によって食い違う。最初のサゼラック・コーヒーハウスを開いたのは酒類商のジョン・B・シラーだとする記述もあり、サゼラック社自身の年表は「1852年に店と店主アーロン・バードが地元紙に初めて登場する」と、やや慎重な書き方をしている。創業年も1850年とされたり1852年とされたりする。看板が掛かった正確な瞬間を、誰も押さえていない。
はっきりしているのはその後だ。1869年、店で働いていたトーマス・H・ハンディらが店を買い取る。ハンディは1873年、クレオールの薬種商アントワーヌ・アメデ・ペイショーが作っていたビターズの権利も手に入れた。一杯を構成する要素が、一つの手に集まりはじめる。
一度目の入れ替わり——コニャックが消えた
フィロキセラ(ブドウネアブラムシ)がフランスのブドウ畑を食い荒らし始めたのは、1860年代の南部だった。コニャック地方に及んだのは1872年、グルアンとシェラックの畑が最初とされる。そこから数年で地域全体に広がり、1878年ごろには壊滅的な状況になる。
名前の由来になったサゼラック・ド・フォルジュのメゾンも、19世紀末に閉業したと英国の酒類業界誌は伝えている。
コニャックが手に入らなくなったニューオーリンズのバーテンダーたちは、足元にあった穀物の蒸留酒——アメリカのライウイスキーに持ち替えた。切り替えの時期については、1870年ごろとする資料もあれば、サゼラック社の年表のように1885年とするものもある。フィロキセラがコニャック地方に達したのが1872年であることを踏まえると、1870年ごろという早い側の数字は、少し早すぎるように見える。
いずれにせよ、サゼラックというカクテルは、名前の由来になった酒を早い段階で失っている。いま「サゼラックを一杯」と頼んで出てくるのは、その代役として据えられた酒だ。ライ特有の胡椒めいた辛さは、甘く重いコニャックの穴を埋めるにしては、ずいぶん違う性格をしている(→ライウイスキーとは)。
そのライの代表格が、いまも同社が出しているサゼラック・ライだ。名を冠したカクテルのために造られたような一本である。
このコラムの関連
関連するボトル


次に読む

週70時間のバーボン工場と、12人のエンジニア——ウイスキーの現場で争われている「時間」
スコッチとバーボンの現場では、この10年ストライキがくり返されてきた。争われているのは賃上げだけではない。残業、シフト、そして「休暇1日=7時間12分」という計算式だ。

なぜスコッチの蒸溜所は、1回の蒸溜を3分で終えたのか——酒ではなく「スチルの容量」に税をかけた法律
18世紀の末から19世紀の初め、ローランドには1回の蒸溜を3分で終えた蒸溜所があった。税額が造った酒の量ではなく「スチルの容量」で決まったため、造り手は浅く広い皿のようなスチルを回し続けた。制度が酒の形を変えた記録。





