なぜウイスキーの造り手は、自分の判断の答え合わせを十数年後にしかできないのか——入社した年に詰められた樽を、60年後の自分が受け取るまで
12年物のラベルの数字は、熟成年数であると同時に日付でもある。仕込みの判断と結果の確認が十年以上ずれる産業を、1962年にグラスゴーの在庫係として入った男と、設立から6年しのいだ会社からたどる。
棚から12年物を一本取る。ラベルの「12」は熟成年数だが、同時に日付でもある。いま瓶に入っている酒が樽に収まったのは、少なくとも12年前だ。その日に「今年はこれだけ仕込む」「この樽に入れる」と決めた人がいて、その判断が当たっていたかどうかは、いま、ようやく分かる。
ウイスキーは、仕事と採点のあいだに十年以上の空白がある、めずらしい産業だ。この記事では、その空白を人と会社がどう引き受けてきたのかを、ひとりの職人と、二つの会社の待ち時間からたどってみたい。
入社した年に詰められた樽を、60年後に受け取る
1962年9月3日、17歳の青年がグラスゴーのウェスト・ジョージ・ストリートにあるオフィスに出社した。ウィリアム・グラント・アンド・サンズ——バルヴェニーとグレンフィディックを持つ会社である。最初の仕事は、勘定と在庫台帳の照合、そしてブレンドに使ったぶんの消し込みだった。肩書きは whisky stocks clerk、原酒の在庫係である。
名前を、デイヴィッド・C・スチュワートという。
その同じ1962年、ダフタウンのバルヴェニーではニューメイク(樽に入る前の無色の原酒)が、ヨーロピアンオークのホグスヘッド数樽に詰められている。のちに本人が語っているとおり、彼が働き始めた年に樽へ入った液体だった。彼が机の上で番号を書き込んだ樽そのものだ、とまでは言えないにせよ、彼のキャリアとこの酒は、同じ年に始まっている。
入社から2年後、当時のマスターブレンダーだったハミッシュ・ロバートソンに引き上げられ、香りをきく訓練が始まった。入社から数えて12年、1974年に、スチュワートは自社ブランドの味を統括するモルトマスター——味の最終責任者——になる。
そして2022年、1962年に詰められた樽のうちのひとつ、リフィルのオロロソシェリー樽が瓶詰めされた。60年熟成、度数42.4%、世界で71本だけ。希望小売価格は14万5,000ドルと発表されている。「ザ・バルヴェニー・シックスティ」——彼の勤続60年に合わせた一本だった。翌2023年8月1日、スチュワートはモルトマスターの座を降り、名誉アンバサダーになっている。
グラスゴーの机で在庫台帳をつけ始めた年の樽が、60年後の自分の手元で答えを出す。業界でもきわめて例外的な話で、裏返せば、ふつうは答えが出る前に人のほうが入れ替わるということでもある。
会社のほうも、5年、6年と待った
日本のウイスキーの出発点も、この空白から始まっている。
寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎が山崎の用地を得たのは1923年10月、起工式は翌1924年4月だ。そして国産初の本格ウイスキー「サントリーウヰスキー白札」が発売されたのは、1929年4月1日。土地を買ってから、5年半が過ぎていた。
値付けは4円50銭。当時のジョニーウォーカーが5〜6円だったというから、輸入スコッチに肩を並べる強気の設定である。だが評判は芳しくなく、煙臭い・焦げ臭いと言われたと伝えられている。待った末に出した最初の一本が、そのまま当たったわけではなかった。

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